2010年11月28日日曜日

今までに見た中で最高の履歴書(その3)

随分と間があいてしまいました。

前回までの記事はこちら。
今までに見た中で最高の履歴書(その1)
今までに見た中で最高の履歴書(その2)


まず、その1では世界トップクラスとはどういうレベルなのかということを紹介しました。
次に、その2では彼らと日本の学生のと差は何か、どこから生まれてくるのかを自分なりに考察しました。
今回は3回目という事で、最後にこういう人達とどうやって関わっていくべきなのかを考察してみたいと思います。

突然ですが、僕は日本にいるとき『世界ってみんなで補い合ってできているんだなー』と思っていました。

つまりは『皆が助け合って社会は成り立っている。無駄な仕事は何一つないし、だから仕事に優越などない』と。

しかしボストンで生活してみてその考えは大きく変わりました。
世の中は、『一部の人たちが仕組みを作り、大部分の人達はそれにぶらさがっているだけ』だと。

これはいわゆる80:20の法則のようなイメージです。
トップの一握りが仕組みを作り、稼ぎ、その他の人を養っている。
社会人はみんな自分の力で稼いで、自分の力で生活していると思うかもしれない。
でもそれって会社の肩書き、インフラなしに稼げるものだろうか?
そもそも自分が経営者だったら今の自分の働きに同じだけの給料を払うだろうか?
(*もちろん今でも人間はみんなで支え合って生きていると思いますし、仕事に優越などないと思っています。ただバランスの問題だと思ってます。)

何が言いたいかと言うと、
以前紹介したような仕組みを作る、他の人の分まで稼ぐ人になるか、それとも僕を含めたその他大勢のようにそれにぶら下がる行き方を選ぶか、ということである。
わかりやすくするために前者をAパターン、後者をBパターンとする。

おそらく前回までのエントリーで紹介した彼らはAパターンだろう。
多くの人は意識せずにBパターンの人生を送るかもしれない。
ただAパターンとBパターンは基本的には延長線上にあるものではない。
なぜなら、『アポロは月に行こうと思っていたから月に行けた。乗り物を改良してたら月に行けたわけじゃない』からである。

こうやって書くと、Aパターンの人々はなんてかっこ良くて、素敵なんだと思うかもしれない。
たしかにAパターンのように、世界の仕組みを作る、今までにないものを作る、他人の分まで支えると聞くと何ともカッコいいが、別にそれだけが全てではないと思っている。

やはり人間生きていく中で一番大切なのは自分の幸せであり、自己満足であると思う。
家族を幸せにしたいとか、大金を稼ぎたいとか、世界を変えたいとかいうのは手段であって、根底にあるのは自分の幸せ、自己満足である。

そう考えるとBパターンのように、例え世界にインパクトを与えていなくても、他人の仕組みの中に生きているとしても、そこそこやりたい事のできる給料をもらい、仲間と切磋琢磨し、休日は家族とのんびり、空いた時間は趣味を楽しむ。これはこれでひとつの幸せの形としては十分ありだと思う。
先程も書いたが、仕事に優越などないし、それで自分が幸せなら何も問題はない。

なにより新しいものを作る、世界の仕組みを作るといったAパターンは孤独以外のなにものでもない。
孤独な上に競争は激しい、将来の確証はない、しかも成功すれば妬まれたり、いわれのない批判を受ける事もある。はっきり言って悪い事の方が多いかも知れない。

ただ多くの人は、知らず知らずのうちにレールに乗って、当然のようにBパターンの人生を生きる。
一度しかない人生なんだから、せっかくなら自分の世界から出て、自分を試してみるのもいいんじゃないかなと思う。

こんな世界じゃ生きていけない、面白くない、と思ったら方向転換すれば良い。

ただ、ちょっとでもAパターンの世界を垣間みた感想としては、
こっちの世界に足を踏み入れてみないとわからない喜びがあるということ。

なんだかAとかBとかの定義が曖昧な上にまとまりがないですが、
要するに人生一度はレールを外れて、挑戦してみるのも面白いかも、ということでした。



2010年11月1日月曜日

今までに見た中で最高の履歴書(その2)

前回の記事では、ボストンキャリアフォーラムに参加したMITの学生の履歴書を紹介した。
前回の記事はこちらを参照
今回は第2弾として、彼らのようないわゆる世界のトップクラスの学生と、日本の大学生の比較を行ってみたいと思う。

1.環境
まず、一番に挙げられる違いはやはり環境であると思う。
これはいわゆる学習する環境の違いという意味なのだが、あまりに漠然としているので少し分けて考えたいと思う。

(1)学習設備
大学というのは学習をする機関である以上、これは欠かす事のできない基本である。
しかし、設備という面でも日本はまだ海外の最先端には及んでいない。
具体的な例を出すと、MITでは24時間電源、高速Wifi使い放題な学習スペースが至るところに存在する。細かい差は他にもあるが、個人的にはこれが一番大事ではないかと思っている。

オンラインにあらゆる情報が落ちており、そしてクラウド化が進んでいる今、この環境さえあれば何でもできる。しかもデバイスのスペックにほとんど左右されずに。
極端な話、この環境さえあればiphoneで大抵の事はできる。調べものもできるし、読み物もできる、レポートだって書く事だって可能だ。
(もちろん皆、効率を重視してノートPCを持ち歩いているけれど)
これは設備投資をすればいいだけなので、日本の大学でも真似する事は簡単である。
ただ次からは根本的な構造に関わる話なので、そう簡単にはいかなくなる。

(2)教授
なぜHarvardやMITなどの一部の大学に優秀な学生が集まるかというと、
『世界最高レベルの教授を揃えているから、世界最高レベルの学生が集まる』
という実に単純なロジックだ。
では、なぜ世界最高レベルの教授を集められるかというと、それは日本では考えられない厳しい環境に起因する。
日本では基本的に一度教授になると、あとは安泰である。言い方は悪いが、あとは遊んでいても一生教鞭を執る事ができる。
しかしHarvard やMITでは、例え過去に凄い結果を残した人でも世界的な評価を取り続けなければ、すぐに教授の地位を剥奪されてしまう。細かいところは省略するが、生き残りの環境という面では、アメリカの厳しさは日本の比ではない。

理屈で理解するのは簡単だが、これを日本で実現するのはかなり難しいであろう。
なぜなら、これは根本的な構造の問題であり、この構造を改革するとお偉いさん達の既得権益を損なう事になる。
つまり、構造を変えられるのはお偉いさんしかいないが、この構造を変えちゃうと自分の安定した職が危険にさられてしまうので誰も変えないということだ。

(3)カリキュラム
良く言われる事だが、日本の大学は入りにくいが出やすい。
つまり一旦入ってしまえば卒業するのはそんなに難しくない。
逆に言えば、在学中に多くを学べるカリキュラムではないという事だ。
それに引き換えアメリカではカリキュラムがしっかりしており、否が応でも学習しなければならないようになっている。

例えば、日本の大学では授業に出て、それにまつわる試験をして終わりな場合が多い。
しかしアメリカでは、授業が始まるまでに授業で扱う内容に関する資料は必ず目を通し、理解しているいる前提で授業が進む。予習していなければ授業についてすらいけない。
さらに授業中にはインプットのみでなくアウトプットも求められる。
具体的には、議論や教授との質疑応答等でどのくらい理解しているか、それについてどれくらいアウトプットを出せるかを問われる。
もちろん授業中だけでは拾いきれない事が多いので、授業後にグループワーク等でさらにインプットした内容をブラッシュアップし、定期的に出される論文の課題等でアウトプットの質を一定以上に保つ。
つまりインプット、ブラッシュアップ、アウトプットのサイクルを高レベルに繰り返すことで、真の理解が得られるのである。
この事前学習、課題の量が半端ではなく、みんな食事を摂る時間も惜しんで勉強する。
日本で流行りのサンデル教授の『ハーバード白熱教室』も、ただ授業を聞いて終わりではないのである。(友人の話によると、彼の人気の秘密は授業内容や形式ではなく、単純に簡単だかららしいが。)
また、自分の専門以外の科目も同様に厳しく評価される。
そのため、自分の専門以外にも深い教養が形成される。
幅広く、そして深く学ばざるを得ないカリキュラムになっているのである。

2.学生の意識
上記の環境があるからこそ言える事だが、学生の意識にも大きな差がある。
もちろん日本の学生に意識の高い人がいないというわけではない。
問題は''比率''と''レベル''である。

(1)比率
これらはあくまで実感値だが、HarvardやMITでは意識の高い人の割合が、日本に比べて圧倒的に多い。
むしろ日本人は、意識が低いというよりも『まだまだ日本は世界のトップだから何とかなるだろう』と思って油断している人、余裕かましている人が多いように感じる。
決して何とかなりはしないのに。
これもまた実感値なので参考程度にしかならないが、MITには意識の高い人、いわゆる将来をしっかり考えている人が2人に1人は必ずいる。日本ではクラスに数人いれば良い方ではないだろうか。

(2)レベル
次に意識のレベルである。
日本の大学にいて、意識が高いな、と思う人ってどんな人だろう?
『大学1年の時から就活に向けた活動をしている』
『資格のために勉強を頑張っている』
そんなところではないだろうか?

これらが悪いとは言わないが、こっちの大学生の''意識が高い''とは、
『どう世の中を良く変えていけるか』『世の中に対して自分が何ができるか』
というのを非常に高いレベルで考えているか、ということである。

彼らと比べてしまうと、
『サークルの代表として皆を引っ張っていました』
『学生団体やインターンをやってました』
などというアピールは、無意味に近い程かすんでしまう。
彼らの意識が高いとは前回紹介した彼のようなレベルなのである。

これは彼らが優秀だからというよりも、『自分たちは世界一だ』という自負がそうさせている部分が大きいと思う。

3.就職に対する考え方
以上の項目から導き出される、世界のトップの学生と日本の大学生の就職に対する考え方の違いを最後にまとめたいと思う。

(1)就職は手段のひとつ
日本の学生は就職活動には非常に熱心で、大学3年の夏頃からインターンやらセミナーやらに盛んに参加し、トータルで100社近い企業に応募する人もざらにいるだろう。

しかし、そこまで就職活動に熱心なのになぜ就職以外の方法に目を向けないのかいつも疑問に思う。
決して起業しろとか、そういうことを言いたいわけではない。
バイトしながらミュージシャンを目指すでもよし、田舎に帰って農業をやるもよし、自分のライフプランをちゃんと考えていけば、就職だけが最適解ではないはずだ。

おそらくみんな不況が怖いのだろう。
安定した収入、安定した生活をもとめて必死に就職先を探すのだろうが、安定を求めるのであれば、むしろ今人気企業と言われている大企業に就職する事の方がリスクは大きい。
日系の証券会社などが十数年後に生き残っているかは甚だ疑わしいし、その他の企業も今のまま、むしろ成長しているとは到底思えない。
例え日本の企業が現状維持していても、他国が圧倒的に伸びてきているのだから、相対的に見たらどんどん後退していくしかないのである。

日本人は積極的に、能動的に動いているように見えて、実は企業に、社会に甘えているだけなのかもしれない。

(2)起業に対する考え方
次に、起業に対する考え方にも大きな差が見られる。
日本では、『起業というと優秀な人がするもの、一般人には無理』
という風に考えられる事が多いと思う。しかしアメリカではそうではない。
『やりたいことを実現するために一番近道だから』
『誰かの下で働くのが嫌だ』
『就職できなかったから起業でもしてみるか』
そんな理由で始める人が大半だ。

もちろんそれで失敗する人も多い。
しかし、日本と違うのは周りがサポートしてくれる点だ。
スタートアップ時のサポートはもちろん、失敗後のサポートも日本に比べ整っている。

これがアメリカでは新しい有望な企業が次々と生まれるのに日本ではほとんど出てこない、日本にシリコンバレーができない最大の理由ではないかと思う。


***
とまあつらつらと書いてきたが、一番言いたいのは
”日本人がアメリカ人やその他の国の人に比べて特別劣っているわけではない”
ということ。

では、この差はどこから生まれるのかというと、それはやはり"環境"に起因する。
日本の環境を変えようと努力する事も必要だが、それは一朝一夕にできるものではないのは薄々感じて頂けたかと思う。

だからといって諦めるのではなく、ならば海外に出てこっちの環境に身を置けばいい話なのだ。

人間は環境によって大きく左右される。
もし日本の環境を変えたいと思うのであれば、
良い環境に身を置いて、力をつけてから日本に戻って変えるのが一番近道である。
弱者がいくら良い事を言っても、何も変わらないのである。
***


次回は世界のトップレベルの彼らとどう付き合って行くべきかについて考察したいと思う。


*自分が見てきた範囲での比較なので、多少偏っているかと思います。ご意見ご指摘お待ちしています。

2010年10月27日水曜日

今までに見た中で最高の履歴書(その1)

先週はボストンキャリアフォーラムというものに参加してみた。
一緒に参加したのはロシア人と台湾人、共にMITの学生だ。


日英バイリンガル対象のイベントなので、
僕の英語の履歴書を彼らに添削してもらう代わりに、
彼らの日本語の履歴書を僕が添削させてもらった。
それ時みた履歴書が、今まで見たものとは明らかに一線を画すものだったので
ここで少し紹介しようと思う。
(彼のプライバシーを考慮して、多少抽象化しています)


【高校時代】
*SAT2400点
(※日本で言うセンター試験のようなもの。2400点満点)
*米国機械工学会の広報局にてインターン。
  その際に論文を2本執筆し、専門誌に取り上げられる等、かなりの好評価を得る。
*量子力学や解析学、代数、微積分などをコロンビア大学で学び、
  すべて高校生のうちに単位も取得。
*近くの大学の数学サークルで講師として大学生相手に、
  組み合わせ論、確率論、整数論、代数、離散数学、微積分、幾何学などを教える。


【大学時代】
*代数的位相幾何学、代数組み合わせ論、多様性解析学、非線形力学、波動力学、
  金融工学、ミクロ経済学などの授業を専攻、すべてでA評価を得る。
  中には大学院の授業も含まれている。
(※MITでは日本のように簡単にA評価は取れない。十分な予習、授業中の発言、テスト、論文すべてトータルで評価され、真に理解できていてもA評価を取れるのは一部)
*世界的に有名な数学のコンテストで、全世界でトップ5に入る。
(※学生対象ではなく、大学教授なども受験するコンテスト)
*数学モデリングコンテスト優勝
*ハーバードおよびMITの数学コンテスト優勝
*保険数理士の試験を満点で合格
*コロンビア大学で多光子顕微鏡を用いた光子の浸透深度の最先端な数学モデルの研究。
  論文も執筆し、専門誌に取り上げられる。
*MITのオープンコースウェア運用に携わり、
  原子核科学の講義ノートをLaTexを用いてオープンコースウェア用に書き直し。
*著名な金融アドバイザーの元で働き、
  投資信託やポートフォリオ分析、ETFなどを用いたコンサル実務を経験。


【スキル】
*上級レベルの日本語、ビジネスレベルのロシア語および英語
*Python, Sage, MATLAB, Mathematica, LaTeX, Photoshopを実務レベルで使いこなす。
*株式のテクニカル分析、オプションおよびオプションのスプレット取引、
  および先物、為替取引
*最先端数学を用いた、現在の主流であるアルゴリズムとは別のアプローチの
  新しいトレーディングアルゴリズムを開発。
*上記にまつわる特許3つ


彼は某有名投資銀行の面接を受け、その日のうちに内定をゲットしていた。
凄いなと思うのは、
"自分でまったく新しいアルゴリズムを開発し、それに関する特許も持っている、これを御社に教えてあげてもいいから、どのくらいの条件を提示できますか?"
と有名投資銀行相手に品定めをしていたのだ。

また、彼が言っていた言葉でひとつ印象に残っているものがある。
それは"満点以外は他人に言わないようにしている"ということ。

彼が言いたいのはつまりこうだ。
100点満点のテストで99点を取った者の実力は、当たり前だが"99点"である。
しかし100点を取った者の実力は、"100点以上"ということが証明されたに過ぎない。
つまり100点と99点には天と地ほどの差がある場合があるというのだ。
だから満点もしくは最高レベルの評価を得たものしか書かないのだそうだ。

言うは易し、行うは難しなのは言うまでもない。

問題は、彼が特別な存在なのではなく、彼のような人が多数派であること。

彼らのような人達と、日本から来た就活生、両方を見た上で
僕が今回のボストンキャリアフォーラムで感じた事は次回また詳しく書こうと思う。


続き
今までに見た中で最高の履歴書(その2)
今までに見た中で最高の履歴書(その3)

2010年10月17日日曜日

日本の科学技術力は上がっているか?

ついこの間、ノーベル化学賞を日本人2名が受賞した。
化学は自分の専門分野ではないので受賞内容について詳しい事はわからないが、
この受賞が日本ではちょっとしたお祭り騒ぎになっているという点について言及したい。

今回のノーベル賞受賞が日本の科学技術力向上を示したという事で騒いでいるのだと思うが、
果たして本当にそうであろうか?
(ここでは化学よりも広義の意味を示す科学技術力とする)

確かに国際競争も激化し人口が減少している昨今、
元々の強みであった科学大国としての軸を更に強化していくのは正しい方向性であると思う。

しかし今回の受賞では科学技術力の高さが証明されたわけではないと思う。

そもそも、この度の受賞は1979年に発表した研究に対して送られたものである。
30年以上も前のものなので、これを受けて日本の科学技術力が上がっていると判断するのは軽薄すぎる。

また、この論文の礎となった研究がなされていたのは日本ではない。
鈴木氏は長年北海道大学にて研究を行われてきたが、
1963年から3年間アメリカのパデュー大学に在籍しており、
そこでの研究が今回のノーベル賞受賞に結びついていると語っている。

根岸氏に至っては、研究生活の大半をアメリカで過ごし、在米歴は50年を超える。

つまり日本の科学技術力が上がっているのではなく、
単純に海外で最先端の研究をしていたのが日本人だった、というだけなのだ。

根岸氏はテレビの取材でしきりに若者が海外に出る事を勧めていたという。
これは様々な価値観や文化に触れるべきという意味もあるだろうが、
日本の中にいるだけでは最先端の事はできないということも示している。

たしかに近年日本で学び、研究して世界的に認められたものはほぼないのではないだろうか。
そう考えると今回のノーベル賞の受賞を日本人として単純に喜んではいられない。

これは科学の分野に限らず、あらゆる分野で言えることだろう。
単純に日本人が世界で活躍したからといって、日本が世界に認められたわけではない。

ただ単に、海外で学び、育まれた人が日本人だったというだけに過ぎないのだ。