2010年11月1日月曜日

今までに見た中で最高の履歴書(その2)

前回の記事では、ボストンキャリアフォーラムに参加したMITの学生の履歴書を紹介した。
前回の記事はこちらを参照
今回は第2弾として、彼らのようないわゆる世界のトップクラスの学生と、日本の大学生の比較を行ってみたいと思う。

1.環境
まず、一番に挙げられる違いはやはり環境であると思う。
これはいわゆる学習する環境の違いという意味なのだが、あまりに漠然としているので少し分けて考えたいと思う。

(1)学習設備
大学というのは学習をする機関である以上、これは欠かす事のできない基本である。
しかし、設備という面でも日本はまだ海外の最先端には及んでいない。
具体的な例を出すと、MITでは24時間電源、高速Wifi使い放題な学習スペースが至るところに存在する。細かい差は他にもあるが、個人的にはこれが一番大事ではないかと思っている。

オンラインにあらゆる情報が落ちており、そしてクラウド化が進んでいる今、この環境さえあれば何でもできる。しかもデバイスのスペックにほとんど左右されずに。
極端な話、この環境さえあればiphoneで大抵の事はできる。調べものもできるし、読み物もできる、レポートだって書く事だって可能だ。
(もちろん皆、効率を重視してノートPCを持ち歩いているけれど)
これは設備投資をすればいいだけなので、日本の大学でも真似する事は簡単である。
ただ次からは根本的な構造に関わる話なので、そう簡単にはいかなくなる。

(2)教授
なぜHarvardやMITなどの一部の大学に優秀な学生が集まるかというと、
『世界最高レベルの教授を揃えているから、世界最高レベルの学生が集まる』
という実に単純なロジックだ。
では、なぜ世界最高レベルの教授を集められるかというと、それは日本では考えられない厳しい環境に起因する。
日本では基本的に一度教授になると、あとは安泰である。言い方は悪いが、あとは遊んでいても一生教鞭を執る事ができる。
しかしHarvard やMITでは、例え過去に凄い結果を残した人でも世界的な評価を取り続けなければ、すぐに教授の地位を剥奪されてしまう。細かいところは省略するが、生き残りの環境という面では、アメリカの厳しさは日本の比ではない。

理屈で理解するのは簡単だが、これを日本で実現するのはかなり難しいであろう。
なぜなら、これは根本的な構造の問題であり、この構造を改革するとお偉いさん達の既得権益を損なう事になる。
つまり、構造を変えられるのはお偉いさんしかいないが、この構造を変えちゃうと自分の安定した職が危険にさられてしまうので誰も変えないということだ。

(3)カリキュラム
良く言われる事だが、日本の大学は入りにくいが出やすい。
つまり一旦入ってしまえば卒業するのはそんなに難しくない。
逆に言えば、在学中に多くを学べるカリキュラムではないという事だ。
それに引き換えアメリカではカリキュラムがしっかりしており、否が応でも学習しなければならないようになっている。

例えば、日本の大学では授業に出て、それにまつわる試験をして終わりな場合が多い。
しかしアメリカでは、授業が始まるまでに授業で扱う内容に関する資料は必ず目を通し、理解しているいる前提で授業が進む。予習していなければ授業についてすらいけない。
さらに授業中にはインプットのみでなくアウトプットも求められる。
具体的には、議論や教授との質疑応答等でどのくらい理解しているか、それについてどれくらいアウトプットを出せるかを問われる。
もちろん授業中だけでは拾いきれない事が多いので、授業後にグループワーク等でさらにインプットした内容をブラッシュアップし、定期的に出される論文の課題等でアウトプットの質を一定以上に保つ。
つまりインプット、ブラッシュアップ、アウトプットのサイクルを高レベルに繰り返すことで、真の理解が得られるのである。
この事前学習、課題の量が半端ではなく、みんな食事を摂る時間も惜しんで勉強する。
日本で流行りのサンデル教授の『ハーバード白熱教室』も、ただ授業を聞いて終わりではないのである。(友人の話によると、彼の人気の秘密は授業内容や形式ではなく、単純に簡単だかららしいが。)
また、自分の専門以外の科目も同様に厳しく評価される。
そのため、自分の専門以外にも深い教養が形成される。
幅広く、そして深く学ばざるを得ないカリキュラムになっているのである。

2.学生の意識
上記の環境があるからこそ言える事だが、学生の意識にも大きな差がある。
もちろん日本の学生に意識の高い人がいないというわけではない。
問題は''比率''と''レベル''である。

(1)比率
これらはあくまで実感値だが、HarvardやMITでは意識の高い人の割合が、日本に比べて圧倒的に多い。
むしろ日本人は、意識が低いというよりも『まだまだ日本は世界のトップだから何とかなるだろう』と思って油断している人、余裕かましている人が多いように感じる。
決して何とかなりはしないのに。
これもまた実感値なので参考程度にしかならないが、MITには意識の高い人、いわゆる将来をしっかり考えている人が2人に1人は必ずいる。日本ではクラスに数人いれば良い方ではないだろうか。

(2)レベル
次に意識のレベルである。
日本の大学にいて、意識が高いな、と思う人ってどんな人だろう?
『大学1年の時から就活に向けた活動をしている』
『資格のために勉強を頑張っている』
そんなところではないだろうか?

これらが悪いとは言わないが、こっちの大学生の''意識が高い''とは、
『どう世の中を良く変えていけるか』『世の中に対して自分が何ができるか』
というのを非常に高いレベルで考えているか、ということである。

彼らと比べてしまうと、
『サークルの代表として皆を引っ張っていました』
『学生団体やインターンをやってました』
などというアピールは、無意味に近い程かすんでしまう。
彼らの意識が高いとは前回紹介した彼のようなレベルなのである。

これは彼らが優秀だからというよりも、『自分たちは世界一だ』という自負がそうさせている部分が大きいと思う。

3.就職に対する考え方
以上の項目から導き出される、世界のトップの学生と日本の大学生の就職に対する考え方の違いを最後にまとめたいと思う。

(1)就職は手段のひとつ
日本の学生は就職活動には非常に熱心で、大学3年の夏頃からインターンやらセミナーやらに盛んに参加し、トータルで100社近い企業に応募する人もざらにいるだろう。

しかし、そこまで就職活動に熱心なのになぜ就職以外の方法に目を向けないのかいつも疑問に思う。
決して起業しろとか、そういうことを言いたいわけではない。
バイトしながらミュージシャンを目指すでもよし、田舎に帰って農業をやるもよし、自分のライフプランをちゃんと考えていけば、就職だけが最適解ではないはずだ。

おそらくみんな不況が怖いのだろう。
安定した収入、安定した生活をもとめて必死に就職先を探すのだろうが、安定を求めるのであれば、むしろ今人気企業と言われている大企業に就職する事の方がリスクは大きい。
日系の証券会社などが十数年後に生き残っているかは甚だ疑わしいし、その他の企業も今のまま、むしろ成長しているとは到底思えない。
例え日本の企業が現状維持していても、他国が圧倒的に伸びてきているのだから、相対的に見たらどんどん後退していくしかないのである。

日本人は積極的に、能動的に動いているように見えて、実は企業に、社会に甘えているだけなのかもしれない。

(2)起業に対する考え方
次に、起業に対する考え方にも大きな差が見られる。
日本では、『起業というと優秀な人がするもの、一般人には無理』
という風に考えられる事が多いと思う。しかしアメリカではそうではない。
『やりたいことを実現するために一番近道だから』
『誰かの下で働くのが嫌だ』
『就職できなかったから起業でもしてみるか』
そんな理由で始める人が大半だ。

もちろんそれで失敗する人も多い。
しかし、日本と違うのは周りがサポートしてくれる点だ。
スタートアップ時のサポートはもちろん、失敗後のサポートも日本に比べ整っている。

これがアメリカでは新しい有望な企業が次々と生まれるのに日本ではほとんど出てこない、日本にシリコンバレーができない最大の理由ではないかと思う。


***
とまあつらつらと書いてきたが、一番言いたいのは
”日本人がアメリカ人やその他の国の人に比べて特別劣っているわけではない”
ということ。

では、この差はどこから生まれるのかというと、それはやはり"環境"に起因する。
日本の環境を変えようと努力する事も必要だが、それは一朝一夕にできるものではないのは薄々感じて頂けたかと思う。

だからといって諦めるのではなく、ならば海外に出てこっちの環境に身を置けばいい話なのだ。

人間は環境によって大きく左右される。
もし日本の環境を変えたいと思うのであれば、
良い環境に身を置いて、力をつけてから日本に戻って変えるのが一番近道である。
弱者がいくら良い事を言っても、何も変わらないのである。
***


次回は世界のトップレベルの彼らとどう付き合って行くべきかについて考察したいと思う。


*自分が見てきた範囲での比較なので、多少偏っているかと思います。ご意見ご指摘お待ちしています。

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